市民派選挙についての一考察

市民派選挙についての一考察

杉山史郎

 

私たち市民派あるいは緑派にとって、選挙とはいったいなんでしょうか。現在の社会システムではもはや未来がないと思っている私たちにとって、その社会システムそのものの議会に参入することは、ある意味矛盾を抱えることに他なりません。決して議会に入ればすべてOKというわけではないことに留意しなければなりません。この点で、議会に入った市民がまず陥りやすい罠があります。一般に議会はひとつの村社会です。専門的特権的な経済的社会的地位が与えられます。お互いに「先生」と呼び合って恥じない世界があります。市民派議員が、市民から付託された責任を自覚し、全うしようとして、いい議員になろうとするとき、ただの市民が議員先生になってしまう惧れがあります。システムに取り込まれる惧れ、これこそが最も気をつけなければならない罠です。
しかし、だからといって敬遠し、近づかないようにするというのもまた愚かな態度といわなければなりません。結局別の社会システムに変革するにしても、現在の社会システムを通じて変革するのが私たちの選択だからです。その意味で、議員は私たちの代弁者であり、代行者である性格を強くもっています。しかし、一方で、議員といえども一人の市民であり、独立した人格なのです。だからこそ、様々な社会層の利害が錯綜し、権謀術策渦巻く議会という坩堝の中で、瞬時に判断し主導権を握る議会活動が可能にもなるのです。単に議席を占め、多数派にいいようにひき回されるようでは、心もとないといわなければなりません。議会を社会変革の梃子にすること、そのためにこそ議会に入るのですから。

さて、議会に入る意味は明らかです。それでは、どうすれば議会に入れるのでしょうか。これは実は比較的簡単です。市民派・緑派が支持基盤として当てにできる層が、少なくとも10%はあると考えられるからです。しかしこの層は、現在の社会システムの中で議会に対してさほど強い期待を持っているわけではありません。どちらかと言えば、多様な意識と価値観を持ち、議会の働きについてもあまり当てにならないと考えている層です。したがって、投票率を下げている主な要因を占めていることが多いのです。実際どの選挙結果を見ても、いわゆる無党派層がもう数%動けば結果が大きく変わるのにと思う例は枚挙に暇がありません。

つまり支持基盤はあり、有権者に納得いくまでゆっくり説得できるならば、当選はそう難しいものではないのです、が実はそれがなかなか難しい。第一に、市民運動は選挙が嫌いです。一般的に、運動がかなり定着し広がっていれば、それが選挙運動の母体になりあるいは旗印になり、有権者の理解が得やすいとかんがえていませんか。しかし、なかなかそうはいきません。それは、運動と議会の乖離に原因があるのですが、運動を熱心にやっている人々は往々にして議会政治が嫌いです。つまり議会にあまり関心がない。それどころか嫌悪してさえいる。それは一つには政党との不幸な関係に原因があります。これまで政党は、押しなべて党利党略で市民を裏切ってきました。一方で運動は議員は利用できるだけでいいと考え、個別の運動課題以外では議員をサポートして来ませんでした。それは党も含めて議員にも責任はあって、市民が議員の活動に関与する回路を時には意識的に切ってきました。その結果、運動と議員は持ちつ持たれつのところでしか関係を作ってこれなかったのです。

第二に、選挙技術が、拙劣です。これはあとで少し詳しく書きますが、選挙のやりかたとういうものを、手続きとかそういうものは別にして、徹底的に場当たりでやるという、選挙を一つの政治の流れの中で捉えるということをしてこなかったのです。

ところで、私たちが望む議員とはいったいどのようなものでしょうか。ここに、これからの市民派・緑派の議員像があります。一言でいえば、市民運動の専従としての議員です。したがって、運動を抜きにした議員になりたい、議員で居たいという人にはご遠慮願うということになります。職業としての議員であって構いませんが、行政や議会のためではなく、支持した人々とそれらの人々の運動のために働いてもらいます。もともと税金でまかなわれている議員の歳費なのですから、納税者のためにこそ使われるべきで、当然といえば当然のことではあります。しかし現在の状況は残念なことにそうはなっていません。

さて、そうなれば、選挙にやり方もおのずから変わってくるでしょう。現在は多くの場合、出ようと思う人がいて、それを応援する人々が集まります。それはそれで構いませんが、市民運動の専従という意識はあまり強くないのが普通です。それはちょっと困ります。そこの確認が必要です。それは当選後の歳費も含めた活動のしかたに大いにかかわってくるからです。

もちろん、各人にそれぞれ事情や生活があるのですから、歳費の扱いはその人に任せるべきだという考え方があります。それは確かにそうなのですが、何も私腹を肥やすのが目的ではないのですから、生活費以外のお金はみんなが納得のいくように使うのが当然です。たとえば足りないときにどうするのかという問題も当然起きてくるでしょう。そういうことも含めて民主的にガラス張りで管理するのが一番いいのではないでしょうか。

だとすれば、選挙体制の組み方もおのずから変わってくるでしょう。まず出せるお金が幾らなのか、かかる費用が幾らなのか、だったら足りないお金をどうするのかです。逆のやり方もあります。幾ら集めれるのか、幾ら使えるのか、幾ら足りないのかです。しかしこれはやむをえないときの発想であり、結局勝てるかどうかわからないということになりかねません。足りない時はやれることしかやれない事になるからです。選挙は、特に地方議員の選挙は勝てるし勝たなければなりません。どう有効に人とお金を使うか、という問題はあるにしても、何もしないで勝てるという場合はそう多くありません。たとえば、前回の都議選、杉並区の福士さんの場合です。選挙体制としてはとても十分とは言えませんでした。しかし、街頭演説と、パンフレット、加えて徹底した電話作戦の相乗効果が、地域できちんと市民運動をやっているというアピールを成功させ、生活者ネットとの競り合いにも勝利しました。当初の様子からでは、とても当選できないのではないかとさえ思えたのにです。

これまでのいくつかの選挙の経験からして、市民派が選挙に勝つのには、いくつかのパターンがあることがわかります。一つは、候補者本人にとても魅力がある場合です。この場合の魅力は様々です。おおむね市民派といわれる、またそう自認している候補者は魅力的です。なぜなら、市民に何かを訴えたい、理解してもらいたいという意識が強いというか、自分の売りはそれしかないとわかっているからです。それだけではなく、持っているテーマが市民の共感を呼ぶものだという信念があるからでもありましょう。選挙はそれでいいのです。わかってもらえる人の票をどう固めるかが勝負なのです。特に地方議会の選挙ではそうです。全市一区の選挙、例えば30人の定数だったとしましょう。自民(自民党籍を名乗らないのも入れて)、民主、社民、公明、共産が常連です。これで少なくとも25議席は決まりです。残りの多くとも5議席を、「生活者ネット」とか、時には「市民の党」とか、保守系公認漏れだとか、果ては「中核派(これは杉並だけか)」「緑の党」「女性党」なんてのが争うわけです。とにかくたくさんで出ます。誰が考えても、一人に絞るなんて難しすぎます。

でも意外と簡単でもあります。一人の人が、検討する候補者は、おそらく五、六人です。「町内会で話題になるあの人(時には隣に住んでいたりする。好き嫌いも割とはっきりしている)。或いは支持する党のあの人。今回は危ないって、必死そうだったわ。友達から電話があった人も二、三人。趣味のサークルのあの人からも頼まれていたっけ。社長も何とか言ってたな。お願いされたりするのは選挙のときぐらいだわ。」とまぁ、こんなぐあいです。そのうちのたった一人しか書けないのです。

実はもっとシビアです。頼む方は必死だからです。でもまぁ受ける方は、段々鬱陶しくなるので、適当に受け流したりします。その鬱憤が、我々市民派の運動員に来たりするのですが、それはまぁ余談です。

しかし、投票するのは一票なのです。とうてい市民派の入る余地はなさそうに見えます。しかしそうでもないのです。確かに、義理とか付き合いで有権者は責められています。この場合、共産、公明、生活者ネットは別です。いうまでもありません。良い悪いは別にして支持する根拠がはっきりしているからです。我々はどうか。義理も付き合いもありません。(ある場合は別だし、それで当選を目指す方法もあります)だけどそのないのが、我々を特別の位置に置くのです。「そういえば、このまえ駅で見かけたあの人は、面白いことをいってたわ。議会が市民から遠いなんて、本当だわ。もっと話を聞きたかったけど、忙しかったからな。」「このまえ訪ねてきた人は、いままでの議員議員した人とは、違ってたわ」「選挙公報も、他の人とは違っていて、こんな人が議員になれば、今までとは違うかも」という具合に、違うカテゴリーで評価されるかもしれないのです。要はその人にとって一番入れたい人になりうるのです。ましてや市民派や無党派(その中には緑派の人が多いと考えられる)は、いつも入れたい人がいないと思っている人たちなのです。ここに、市民派が、当選できる根拠があるのです。

従って、あとはお分かりでしょう。そういう評価が得られるような運動スタイルで運動すればよいだけです。それは何も難しいことではありません。いつも私たちがやっていることをやればいいのです。ただひとつ、ビラ入れは、あまりにもほかの陣営もやっているので、運動でビラ播きするよりもはるかに効果が落ちるとだけは指摘しておきましょう。やるなら候補者が手渡しでやる方法です。

もう一つは、すでにもう話に出ていますが、市民が議会や行政に不満がある場合です。私たちの市民運動はおおむねそこからはじまっているので、まさに独壇場です。共産党も含めて、規制の議会勢力は、議会という村社会の中で、ある意味仲間意識でこれまで活動してきました。従って、これまでの不十分さには共同責任がある、といっても言い過ぎではありません。ここに市民派が存在する意味があります。とりわけ緑の政治を志向するならば、議会を市民の手に取り戻し、市民参加の一部とすることこそ、私たちの目指す第1歩といってもいいでしょう。

もうひとつは、もうしばらくまえになりますが、9年前の都議選だったでしょうか、あしなが募金の活動家だった青年の選挙運動です。全く無名の候補者だったようですが、6万を超える圧倒的な票で、世田谷区で勿論トップ当選でした。おそらく都議会でもトップだったのではないでしょうか。関わったわけではないので、詳しくは知りませんが、強い雨の日に町で見かけたのを思い出します。自転車に乗った3人ぐらいの若者が、候補者も勿論一緒でしたが、傘をさしても風にあおられ、濡れ鼠になって人通りもあまりない通りを走っていた、というか歩いていたのです。感動的でした。土下座はみっともないですが、一生懸命はけなげです。市民派が同じことをやれるとは思いませんが、運動スタイルの一部に一生懸命さをアピールするのは、有効だと思います。

まだ、色々例はありますが、これらはどちらかと言えば、すべて技術的なことです。そうです。選挙は技術の面が相当あります。だからこんな技術の面で立ち遅れて落選するなんて、つまらないと思いませんか。かなり長い時間をかけて準備しても、やはり選挙は短期決戦です。そのときの選挙区の課題や争点、社会や有権者の気分でも相当に違います。しかしそれにあわせて戦略を立て戦術を駆使することはできるんです。それができなくて、或いは見誤ってあえなく落選した市民派の人々は、お気の毒とは思いますが、と同時に、自らの未熟さを反省するべきではないでしょうか。僕は大いに反省しています。

選挙に勝つ当選するということは、如何に効率よく効果的に集票するかということに他なりません。したがって、現在の市民意識、利害関係に大きく左右されるのは、当然のことでしょう。無党派と呼ばれる圧倒的な市民層は、その時々の社会情勢や政治状況によって、不断に動揺し、また選択するのです。

それをどう固めて、当選ラインを確保するのか。ここに選挙の肝があるのです。これまで市民派はここをないがしろにしてきました。いつも今回は風が吹いたという風に偶然に任せてきました。これでも当選は出来ます。でも落選してもどこが悪かったのかわかりません。

票読みという技術があります。保守系をはじめ、既成の政党はみんなこれを熱心にやります。町内会や後援会、企業や労働組合、宗教団体など、組織選挙というのは様々な利害集団の総和で票読みをします。市民派はこれをないがしろにしてきました。というのも、票読みがとても難しいのが市民派で、私たちにはその技術がなかったのです。今でもないところが多いでしょう。しかしこの票読みは、社会学的分析の技術にとてもよく似ています。たとえば世論調査や、マーケットリサーチの技術とほぼ同じといってもいいでしょう。違うところは、私たちのは説得や啓蒙も含めて働きかけをしながら確認の作業をするというところです。私たちが満足できる数字を出すための行動をいっしょにするというところです。

たとえば電話作戦です。電話は選挙期間中に出来る唯一といって良い個人に投票を依頼できる方法です。選挙機関は、チラシも撒けず、戸別訪問も出来ず、選挙カーで走り回るのだけが許されたようなものです。市民はその騒がしさと無内容さにうんざりしています。電話も同様です。本来暴力的に家庭に入り込むのが電話です。しかし、これをうまく活用するしか方法がありません。かつては街頭演説の力で、当選できました。今でもその効果は無くなったわけではありません。しかし、一見勇ましい、情熱のこもった演説も昔ほどの効果はないでしょう。ましてや市民派の特性からして、市民を威圧するかのような美文調の演説は、本来そぐわないものです。ですから電話で、売り込み、説得し、共感を勝ち取るのです。そして反応を引き出し、読み取り、確認するのです。これで票を読むのです。

この方法で、当選ラインの10%増しを読めば、ほぼ確実です。このやり方に実は技術があるわけですが、それは経験的なものが大きいでしょう。といって、経験がなければ駄目かというとそうでもありません。電話をかける名簿や層にもよりますが、一般的には、必要な票数の倍、電話をかけることが出来たら、当選できると思います。もちろんかけても留守ならしょうがありませんから、有効電話の数です。これの利点は、確実に票を積み上げることが出来る点にあります。もし票が伸びないようなら、運動のスタイルなり政策の中身なりに欠点があるのであり、調整可能なものであれば戦術の転換も可能なところです。

いずれにしても、票読み可能なスタイルに選挙戦を変えていかなければ、市民派にとって選挙は水物であり鬼門だということになってしまうでしょう。

しかし、この詰めさえきちんと抑えれば、すでにニーズのある市場で、よい商品を売ることが十分可能なように、市民派にとって当選はある意味当然の帰結という事になるでしょう。ここに保守系までが市民派を名乗って参入してくる根拠があるのです。似非市民派に市場を荒らされて黙っているのはもうやめましょう。

そのために必要なのは、市民派としての筋を貫く、魅力的な候補。女性が多いのは事実ですが、女性なら誰でもいいかというとそうでもありません。そして候補者を支えるボランタリーな仲間たち。市民運動の仲間たちがこの選挙戦を楽しめれば、それで十分です。後は環境・平和・人権を柱に、情報公開・市民参加・議会と行政の改革、草の根民主主義の実現という理念と政策。票読みの出来る堅実な選挙戦術。これで当選は決まりです。

こう書くとなあんだ、簡単じゃない、と思うでしょう。そうです、簡単なんです。だから思い切ってやってみましょう。全国3247自治体に6万人以上の議員がいます。そのうちの5%を市民派が占めたら、3000人の議員集団が出来ます。10%なら6000人です。この力があれば地方はもちろん国政も大きく動かすことが出来るでしょう。長野県をはじめとして全国で起きているうねりは、この方向を向いているのではないでしょうか。今がチャンスです。

 




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